天と地の星——砂漠で迷う湖を追って(作家・椎名誠コラム “ほしい”の想い出01)
魅力と謎のあいだ
小学生の頃から砂漠が気になっていた。アジアのふたつの砂漠、ゴビとタクラマカンがとくに気になる存在だった。
でも子供—というよりもガキ、と言ったほうがいいくらいの、まあつまりはやっぱりガキそのものが「気になっている」なんていうのはちょっとヘンなんだろうなあ、と自分でも思う。
子供が気になる砂漠はたいていでっかい砂の山がウネウネと続き、毎日まん丸い月なんかが出ているものだろう。そこに王子さまと王女さまがラクダに乗って(ふたつ)並んで歩いている。泣きたいくらいうつくしい風景なんだ、とその頃のおとっつあんは言っていた。
しかし、これは同時に非常に危険に満ちた風景だったような気がする。
何時襲ってくるかわからない砂あらしは発生した直後に天地を覆う。とりわけ恐れられているカラブランというのは「黒い砂あらし」のことで、巻き込まれると自分の位置も進んでいくべき方向もたちまちわからなくなってしまうらしい。たとえその「黒い砂あらし」をやり過ごしたとしても、砂漠の夜の放射冷却現象による寒さが恐ろしい。
童謡の「月の砂漠」のように金の鞍や銀の鞍に座っていたら金属擦れでケツが破れて1kmも進めない。
砂漠に罪はない、とは思うものの、子供に夢を与えた月の砂漠のファンタジイの世界はそっくりそのまま死の世界なのだった。
のっけから子供の夢を奪ってどうすんだ、とおこられそうだが、逆に世の中はファンタジィよりも本当の世界のほうがずっと面白かったりする—と言いたいのだ。
ファンタジィよりも事実
ぼくは小学生の頃『さまよえる湖』という本を読んで「ひええ」とのけ反った。
そこには砂漠の巨大な湖が探検するたびに400km前後もきまぐれに移動している、ということが書かれていた。そのため「さまよえる=湖」と考えられ、呼ばれるようになった。
その謎を探ろう、と各国の探検隊が大規模な人員と経費をつぎ込んで探検隊を送り込んでいった。
ぼくはガキの頃、もっぱらそういう探検の本ばかり数多く読んでいた。
とりわけ『さまよえる湖』は面白かった。
琵琶湖よりもはるかに大きい逃げ回る湖を追って、世界各国の精鋭探検隊による湖さがしの競争。
「ぼくもその追跡隊に加わり、砂漠のまぼろしの湖を発見するんだ」少年シーナ・マコト君がまなじりつりあげて西の空を見あげたのも、その当時の全国の少年たちはうなづいてくれるコトと思う。(これにはゴジラもスターウォーズもない昭和の少年たちは… という注釈が必要な気がするけれど)。
夢の実現は遠い彼方
しかし、現実に目をむけると夢の解明はいたるところ厳しく、あっけなく粉砕しているのだった。
問題点が山ほどあったからだ。
基本は、カネ、権力、そして時間、のようだった。当然ながらカネと権力はガキにはまるでなく、あるのは時間だけだった。だからそこに挑んだ。
① 監視している態勢がないから問題の「迷子の湖」の所在地がすぐわからなくなっている。まず目的地とされている場所はどこか。
② とりあえずその湖は中国にある、と思われるが、なんと当時の日本と中国には国交がなかった。
③ だからそこに行くにはスパイのように忍び込しか方法はなかった。ただし子供の視点だったらその可能性はいろいろある。
④ 行くなら、最低でも10年。エキスパートによる探検隊を必要とする。
⑤ 命がけの覚悟がいる。
⑥ 膨大な資金がいる。到底、夢みる一個人、というか(一ガキ)には圧倒的に無理のような気がしたが、こういう夢はひとつずつ足もとを固めるようにして問題点をかたづけていくしかない。
実現できるとしても、だいぶ先の話になりそうだから、そのための各方面での準備,検討がいろいろできる。
つまりそれだけ求めるものが大きい、というわけなのだろう—と、ぼくは大らかにゆるやかに解釈した。人生をつぎ込むようなスケールの目的がずっとむこうにひろがっているのだからじっくり考える必要がある。
⑦ 個人的にはアウトドアの技術をもっと多方面で強めておく必要がある。そのため海、山、川などへの野外体験=キャンプ旅をもっとガンガンやって技術的にも知識蓄積のうえでも貪欲になる。
⑧ 同じ理由で荒地、蛮地の地形学、生物学をもっと基本的に学ぶ必要がある。中央アジアの生物の実態的学習が必要である。同じ理由で野外料理の知識をもっと本格的に知り、自分のものにしたい。
⑨ 同じ理由で体をもっと計画的にきたえる。自宅でのウエイトトレーニング、ランニング、剣道、柔道を習いにいく。
⑩ 友人らとのキャンプ旅を意識的に増やしていく。
⑪ 『西域探検紀行全集』の再読。しかしこれらはみんな国家戦略の臭いのする大探検行ばかりなので読みすすむと理想と現実の乖離感がさらにまた強くなる。でも夢は夢としてそういう知識がやはりいつかモノをいうのだ、ということを再認識していった。
突然出てきた国家改造の話
日記とか読書メモなどからその頃、砂漠踏破にむけてぼくが漠然と考えていたことを書いてみたがキリがない。同時にあまりにもその思いが現実とは遠く乖離したノウ天気なものになっていて、一方的かつ散発的なのが恥ずかしい。
けれど現実社会ではその時期、政界に田中角栄という人が現れて、あちこちで暴れていた。そしていきなり中国との国交正常化、という思いがけないコトをやってのけたのだった。
中国にわたるための巨大な壁となっていたものがいきなり外されたのだ。
といってもそこらの犬コロみたいなアンちゃん(ぼくのコトです)にとっては何がどうなったのかよくわかっていない。ただ、夢をもってしぶとくたちむかっていると、どんな険しい道もいくらかはほどけ、歩けるようになってくるもんなのだなあ、ということを体験からしみじみ学んだのでもある。
具体的な角栄効果はすぐに現れてきた。マスコミの中国探訪、探索が急速に始まったのだ。ぼくの日々にも変化が現れてきた。
中国旅への門戸が具体的に開けてきた。つまり中国に正式に入っていける。ただし当時は厳しい条件があり、そのひとつは10人ほどの小団体にかぎる、という制約だった。
週刊誌から中国の辺境を取材しませんか、というありがたい話が飛び込んできた。
「シルクロードへの旅」という当時としては画期的かつ魅力的な旅話だった。感謝しつつすぐに参加した。僧侶の多いチームだったが刺激的だった。
あらゆる風景が新鮮で魅力的だった。上海からの列車宿泊による旅だった。じわじわとシルロードのトバ口に入っていく。中国人の案内人がいろいろ注意事項を話してくれた。
まずは砂漠の入り口
旅には衣食住の安定確保が条件になる。粗末ながら宿は確保できるが、その頃は中国全土のトイレが開放式だった。水洗式などもちろんないが、個人のプライバシーもない頃だった。つまり壁もドアもないところですべて処理する。これはぼくにとって異次元に接近していくような偏屈な魅力があった。
上海の人民公園から実地体験していった。
その頃の中国はあらゆることが純で荒っぽく、それがかえって魅力的だった。
敦煌はゴビ砂漠の入り口—もしくは末端にあたる。鳴砂山という高さ150m、幅20〜40m四方ぐらいの小さなスケールの砂山があった。そこではラクダによる20km四方ぐらいの安易な砂漠をいくラクダ旅の実地体験ができた。
その旅での体験はなにもかも新鮮で刺激的だった。たとえばラクダがけっこう根性の悪い動物だ、ということを知って、それは後にずいぶん役にたった。
たとえばラクダは食べたものを複数あるイブクロのあちこちに移動させていつもモグモグやっているのは知られているが、なにか気にいらないときはこの胃のなかのものをその相手に吐きつける、ということをやる。「かわいいラクダちゃーん」などと近寄ってきた奴などに気分しだいで吐きつけくらしい。映画「エクソシスト」を思いだした。
チャンス到来
カヌーの旅人、野田知佑さんに弟子入りしていくつかの川を下る旅を体験した。
馬でよくいく砂漠の旅はモンゴル側のゴビ砂漠で本格的な馬旅として間もなく体験した。このとき「かたい草原」と「やわらかい砂漠(岩地)」がある、ということを体験的に知っていった。
1988年、ついにビッグチャンスがやってきた。朝日新聞創刊100周年、テレビ朝日開局25周年にちなむシルクロードの象徴とでもいうべき「楼蘭」への探検旅への参加ができたのだ。ヘディンが何度も挑戦し、日本からも大谷探検隊がそこに到達した。大谷の探検隊の成功後、日本人としては70年ほどたっていた。
「日中共同楼蘭探検隊」というチームの一員になれた。四輪、および六輪トラック隊でいく旅だった。連日テント泊である。食事は中国のサポート隊がつくった。大型六輪トラックでやってきた中国式アウトドアのサポート隊はすべてが荒っぽく道路工事の延長のようだった。
積んできたコメを、やはり大量に積んできたドラムカンの水で研いでスコップでかきまわし、バケツに入れてあるザーサイをどっさり混ぜたものがザーサイまぜごはん。まずい。ザーサイお粥にときどき羊の肉や内蔵がはいる。
これもあまりうまくはなかったけれど、間食というものが一切ないから常に空腹であり、うまいと考えるからだになっていった。羊は十頭ほどいきているのを積んできており、適当に食べていた。中国のサポート隊をいれて百人ほどの人数になっていたから配給肉はたかが知れている。
しかし平和な顔をしている羊らはどうもヘンだ。毎日仲間が減ってきている。ということに気がついてきているようだった。
あるときついに一頭が逃げ出した。
「ヒツジガニゲタ!」
緊急警報のカネだ。大切な肉素材である。
隊員全員による「羊追跡獲得作戦」が行われた。一時間の奮戦の末なんとか確保。もっとも逃げきったとしてもその羊は助かりはしなかっただろうが。
毎日20kmぐらいしか進めない。ヘディンの探検隊の頃、アルティン山脈から流れ出ていた雪解けの川(タリム川)は枯れていた。
その川とは違うもっと幅の狭い川にぶつかった。最初に見たとき「凍った川」か! と驚いた。全面的に凍りついている川のように見えたのだ。驚くべき発見! と思ったがよく調べると川の水がそっくり塩の川として残っていたのだった。
「おわり」の風景
各国の探検隊がやってくるたびに砂漠の表情は変わっている、ということらしかった。やがてついに『ロプノール』らしき広大な湖の跡地に入りこんできた。すっかり水は渇きあがっている。砂漠の真ん中なのに見わたす限り砂の荒れ地。そこに7~9cmほどの白化して真っ白になっている巻き貝がころがっていた。
砂漠に白い巻き貝が一面にちらばっているのだ。感動的な「おわり」の風景だった。樹齢2,000年と推察されるタマリスクの白いガイコツの林のようなものがひろがっている。めざす楼蘭はその先にある。まだ蜃気楼のような影さえもみえない彼方だが。
そこまでくるあいだいくつもの蜃気楼を見た。蜃気楼はすべての砂漠探検記に語られているように旅をする人をたぶらかすものだった。たくさんのタツマキも見た。砂漠としての大地はこういうものによっていたるところ入り組んで乱れ、広大な風景のなかで遠望する小さな砂あらしとともに静かに旅人をたぶらかす「危険なあばれもの」そのものになっているのだった。
太陽は砂漠特有の容赦のない沈黙の強烈な陽光として照りつけ、むかしの旅人が記録した「空に飛ぶ鳥はなく、地に這うものはない」という絶望的感想がほんものであることを承諾させるようにあきれるくらいの「空白」となってひろがっていた。
水のにおいはどこにもなかった。行く場所への方向設定を誤って漂いはじめるとその空白に否応なく立ち向かうしかなかった。
夜は濃厚、かつ濃密な闇となり、風がはっきり敵になったり一転して不思議な味方にもなった。
最後はもう四輪駆動車でも進むことができなくなり、アタック隊はそこから目的の楼蘭まで歩いていくことになった。真っ昼間に歩きはじめても到着は夜とわかった。砂漠の夜は昼とは正反対の「さむさ」の闇。風が味方するか敵になるかルートの方向によって成否が決まってくる。
「2,000年以上同じ方向から吹いている」という強い風の恐るべき単調な難所をいくことになる。その距離約25km。高さ5~7km前後の同じ方向に連なる土の壁をひたすら越えていくことになった。
疲労したり怪我をしたりで進めなくなったらその人の旅はとりあえずそこで終了、と非情なことを隊長からつげられていた。事実、ダメージの度合いによっては救助するすべがなかった。
ただし、高山とちがって酸素は十分にある。不足しているのは水と全身の力なのだ。これは耐久レースだ、ということがわかってくる。
いつまでも続く風化した7mの土壁を土砂と一緒にくずれおち、態勢をたてなおしてまた登りなおす。そういうことの繰り返しだった。かぎりなく続く7mの悪夢のような土砂の波。それがタクラマカンの実態だった。
闇のむこうのともしび火
太陽がおち、あたりが闇に包まれるのと同時に天空から救いがきた。
気がつくと周囲は漆黒の闇ではあったが、それと同時に一面の星がきらめいていた。この星の濃密具合に息を飲んだ。夜の闇よりも星のあかるさがそれらをうわまわっているのだった。あまりにも量の多い星のあかるさが夜の闇をおしのけている、と表現したらいいだろうか。
宇宙の星のようすはヘディンらが進んだ大昔と本質的に何もかわっていないように思えたが、ひとつだけ天空を「まじめに光るむし」のようなものが星空を引きさくようにじわじわ動いている。
人工衛星だった。
夜空を動く人工衛星だけがヘディンの探検した頃から夜の光景を変えているたったひとつの“変化”だった。
めざす楼蘭まで10kmぐらいの地点まできていた。星はあたり一面の大地のすぐ上まで見えている。砂漠がとことん乾燥しているので、そういう地表スレスレのところでマタタイテいる星まで見えてしまっているのだった。天の星々と地表スレスレの星々。
天と地の星。それらが砂漠の漆黒の闇の中の圧倒的な道シルベになっているのだった。
写真・文:椎名誠
作家・椎名誠のほしい論を語るインタビュー
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