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「“ほしい”という欲求は生きるパワーだ」 —作家・椎名誠のほしい論

“ほしい”が見つかる商品ブランド「ANA FINDS」。「#あの人のほしい論」シリーズでは、毎回著名人やアーティストをお呼びして、その人の"ほしい"の源泉やその哲学を伺います。今回のゲストは、作家の椎名誠さん。

業界誌の編集者としてキャリアをスタートさせて、約半世紀。作家、写真家、映画監督として第一線で活躍し、世界中の辺境を冒険し続けたこともでも知られる椎名誠さんは、若い頃から貪欲に自分の“ほしい”を求め続けてきました。

「“ほしい”という思いは、生きるパワーだ」と椎名さんは語ります。

一体、どのようにして自分の“ほしい”と向き合い続けてきたのでしょうか? 椎名さんが“夜のオフィス”として40年以上愛用する行きつけの居酒屋『池林坊(新宿)』にて、ビールを片手に語ってもらいました。

椎名 誠(しいな・まこと)
1944(昭和19)年、東京生まれ。東京写真大学中退。流通業界誌編集長を経て、作家、エッセイストとして活動を始める。『アド・バード』(集英社)、『武装島田倉庫』(新潮社)、などのSF作品をはじめ、『わしらは怪しい探検隊』シリーズ(角川文庫)など紀行エッセイ、『犬の系譜』(講談社文庫)、『岳物語』(集英社)など自伝的小説、『旅の窓からでっかい空をながめる』(角川文庫)など写真エッセイと多数の著書を発表。映画『白い馬』では、日本映画批評家大賞最優秀監督賞ほかを受賞。日本や世界の辺境を冒険し、その体験をまとめた旅行記や映像にもファンが多い。

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「“ほしい”がなくなると工夫も満足も生まれない。ひとつの“生きるパワー”をなくしてしまう」

——「あの人のほしい論シリーズでは、いろんな方のお話を伺いながら、私たちが「自分の“ほしい”に出会う」ヒントを探していきたいと考えています。“ほしい”という欲求は人それぞれ形が異なり、「物欲がない」と言う人もいますが、椎名さんは“ほしい”という感情をどう捉えていますか?

そうですね。物を突き詰めることが発想の基盤になるわけだから、何かを欲するのは大事なことです。それがなくなると工夫は生まれないし、満足も生まれない。「何もいらない」とか「欲がない」というのは、聞こえはいいですよ。でもそれは嘘ですね。「騙されないぞ」と思いますね。

突き詰めるものがあって、欲求があって、過程や苦労があって、だから満足がある。こういう文法は紋切型だけど、あやふやにしちゃいけないと思うんだ。経路としてあったほうがいい。欲望がなくなるのは、ひとつの「生きるパワー」をなくしてしまうことです。

——飢えていないと満足は得られないんですね。

そう。だからものは考えようで、「足りていない状態」はある意味ですごく大事なのかもしれない。そこから生み出されるパワーがあるはずだから。一方、満ち足りている状態は贅沢でもあるし、不幸でもあるかもしれない。何かを作り出そう、得ようとする力を放棄しちゃうことだから。

でも、今話していて思ったのは、僕は割と「ほしいもの」や「こうありたい自分」を持っていて、それを貪欲に追求してきた記憶があるんです。例えば、僕の前の世代の人たちが「大学時代に寮生活をしていた」という話を、北杜夫さんなどの文学で読んでね。そこには、バンカラな連中が青春を謳歌する話がいっぱいあるんだ。

そういう日々に憧れて、僕も20代の頃に親しい仲間を集めて、自分で寮みたいなものをつくったんだ。下町の小岩というところで汚いアパートを借りて、 3年近く仲間たちと共同生活をしたんです。人生の初めのクライマックスでした。

——それくらい、仲間との共同生活で得た充実感や満足感は大きかったと。

いや、人間って欲深いやつでね、そのときは分からないんだ。あの頃は、今が「そう」だという自覚はなかった。ただ貧乏生活を送っていただけで…… でもだからこそ、挑戦欲があったと思います。

挑戦欲って、例えばこういうことです。当時の僕らはお金がなかったから、パチンコが上手な奴にみんなで集めた小銭を与えて「サバの缶詰を 5、6個取るまでは帰ってくるな」と言ってね。そうすると本人も必死になって、玉弾きがだんだんと上達するんだ。それであるとき時、缶詰を10個ぐらい持ち帰ってきたわけですよ。みんな、ワーッと拍手喝采する。彼は彼で喜びに包まれて、みんなで平和に暮らしましたとさ…… という一晩がありましたね。

——椎名さんご自身も、次々に挑戦しては夢を実現させていますよね。

なんだか僕にはそういう能力はあるみたいなのね。「雑誌を作りたい」と思ったとき時もそうだった。あれも、ひとつの夢だったんですよ。夢を持って追求するとかなうんだ、と実感しました。夢がかなうまでの過程、ほしいものを手に入れようと奮闘している最中が、一番面白いのかもしれない。だけど熱中できる喜びみたいなものは、その最中にいるとき時はなかなか気づかないんですよね。

「“物欲がない”のは、モノがありすぎる世界や世代に生きている人の贅沢でしょうね」

——椎名さんはどんなものを“ほしい”と思うことが多いですか?

ものを書くときの発想力ですね。いつも「もっとこういう筋立てを考えられれば……」と歯噛みする思いでいます。アイデアが思いつかないことはしょっちゅうだし、素晴らしい作品を書く人に嫉妬しています。芥川龍之介に『鼻』という有名な短編小説がありますが、どうしたらあんな発想が出てくるんだろうと嫉妬しますね。

でも、嫉妬するのは悪いことじゃない。上昇意欲があって、可能性を持っているということだから。僕の場合、その上昇意欲を満たすためにたくさん本を読むわけです。それでくたびれ果てちゃうというね(笑)。僕のこの50年間は。そういうことの連続だったな。

——「くたびれる」という言葉が出ましたが、何かを“ほしい”と思い続けるのは疲れることでもあると思うんです。椎名さんは。なぜ“ほしい”と思い続けられたのでしょうか?

そういうことを考える時間と空間を与えてくれた時代に生きているからだと思います。僕らが生きている現代は、戦乱が終わった後の時代。申し訳ないくらい平和な時代に生きさせてもらえたと感謝していますね。

一方で、戦乱の時代を生き抜いた先人たちに嫉妬することもあるんです。僕みたいにのほほんと生きてきた人間には計り知れないほどの思いを背負いながら生きていたわけじゃないですか。やはり、戦争を知っている作家と知らない作家では、考え方に随分と差がある。

もっといえば、現代を生きる人たちが言う“物欲がない”のは、モノがありすぎる世界や世代に生きている人の贅沢でしょうね。だからあんまり声を大にして言っちゃいけない気がするな。僕は満ち足りた時代を生きてしまったことを、恥ずかしいとすら思います。

——では、「旅」という観点からはどうでしょう? 椎名さんはこれまで世界中を旅し続けてきましたが、何がほしくて旅をしていたのでしょうか。

夢をかなえることで得られる達成感や充足感を欲していたんだよね。先人が辿った空気感とか、もっとシンプルに言えば寒さや暑さとか、そういった感覚を追体験したいという夢。単純な動機だけれど、幾多の先人たちの足跡を見ても、旅人はみんなそうだったんだと思います。

例えば、何か夢が破れて心痛み、丘の上で寝転がっているとしますよね。晴れた空に雲が浮かんでいて、風に流されていく…… それを見て「いいなあ、あの雲みたいに自由になりたいなあ」と、人はその程度のことを夢見るわけです。僕は、そういう夢を追求して、実現してきたということですね。その満足感はありますね。

「ANA FINDS」からのお土産「沖縄島ごはん佃煮セット」を味わう椎名さん

「あの世界ではコンドルだけが自由だった」 忘れられない冒険。そのとき、椎名誠が心から“ほしい”と思ったもの

——では最後の質問です。この記事では椎名さんの“ほしい”を通して、読者が自分の“ほしい”に目を向けたり出会えたりするきっかけになればと思っています。読者の皆さんに、椎名さんからエールをいただけないでしょうか?

今の質問に心を込めて、僕の経験をひとつ語りますね。たわいもない話だけれど、笑わないで聞いてください。

これは僕が世界中のいろんなところに行き始めた頃のこと。
1983年、まだ僕は30代後半で体力も好奇心もあふれんばかりの頃に、パタゴニアに行くことが決まったんだ。パタゴニアってのは南アメリカの最南端、アルゼンチンとチリにまたがる南極に近いエリアのことですね。

その頃、僕は売り出し中で、家の固定電話にじゃんじゃん連絡が入ってくる。その電話を、家にいる奥さんが全部取るわけです。

深夜1時にも「ご主人はどこですか?」って。
でも僕は行き先を告げないから、妻は「分かりません」と言うしかない。

すると「あなた奥さんでしょ? なんで知らないんだ」と責める人がいるらしいんだ。そういうことを、奥さんは優しいからいっさい僕に言わないわけ。だから当時は、全部彼女ひとりで背負ってしまってね。

で、パタゴニアに行く3日前だったかな。
奥さんと話しているとき、彼女が僕の顔を見ていないことに気づいたんです。そのことを伝えたら、彼女、何も言わずに涙をボロボロ流すんだ。「あれ、これは普通じゃないな」と思ったんだけれど、そのときにはもう出発が決まっていて。

出発の日の朝がきた。
僕は奥さんに「じゃあ行ってくるからね」って言ったの。
いつもは「行ってらっしゃいね」って答えてくれるんだけど、その日は俺の顔を見ないで、振り向きもせずに職場に行っちゃうんだ。

そのときに、事の重大さに気がついたんだよね。
だけど僕は進むしかないから、そのまま空港に向かった。

パタゴニアに着いてから目的地までは、正確なルートも知らないし足もない。船なら行けるだろうと踏んでいたけれど、現地の人はみんな「あんな険しいところには絶対に行けない。行ったらあんた死ぬよ」って言うわけ。だけど行かないと、僕の仕事はアウトなんだ。

でも、なんとかなるもんだね。
チリ海軍の軍艦・リエンテール号に乗せてもらえることになった。軍事機密で航行の目的は教えてもらえなかったけれど、とにかくそのオンボロ軍艦に乗って、荒れる海を進むことになった。僕は、航海の間ずっと奥さんのことを考えているわけ。

当時は電話で連絡なんてできないの。
地球の反対側だからね、日本と電話が繋がるなんて発想すらない。

すさまじい旅だったんだ。
ものすごい波濤の中、1,000mぐらいの氷河の崖がバンバン倒れてくる中をぐんぐん進んでいく。僕は奥さんのことを考えて辛いから、ビールで酔っ払ってさ。たまに海が穏やかになったときに、甲板に寝転がっていたんだよね。海峡に2,000m級の雪山がずーっと続いていて、それをぼんやり眺めながら「あいつどうしてるかなあ」なんて。

すると、大きな鳥が飛ぶのが目に入った。
コンドルなんですよ。
コンドルって翼を広げると3メートルくらいあるんだ。
これが上昇気流に乗って飛んでいるわけ。

そのときに「いいなあ、コンドルは」と思った。「あれだけの翼があれば、3日くらいで日本に帰れるんじゃないか。コンドルになりたいなあ」と。

僕はパタゴニアという辺境を冒険しながら、ずっと「日本に帰りたい」「妻の声を聞きたい」と思っていたんだね。マゼランが旅したルートを辿る素晴らしい体験だったけれど、僕にとっては深い悲しみを知る旅でもあった。

リエンテール号はその後、ケープホーンを超えて南極との間にあるドレーク海峡に向かった。ケープホーンから100kmほど南下したところに、ディエゴ・ラミレス諸島という地球最南端の孤島がある。孤島というか、岩だね。

そこでは、3人のチリ兵士が1年間駐屯していたんだ。そのときになって、リエンテール号の航行目的がその3人を回収して、新たな3人の交代要員を降ろしてくることだと分かったんだ。

交代要員が誰なのかは、一目瞭然だった。
航海中ずーっと暗い顔をしてうつむいている3人がいたんだ。彼らは島に降りると「アディオス」の挨拶もなく、呆然とした顔で我々を見送った。挨拶なんかできないんだよね、死ぬ覚悟で島に残るんだから。

一方で回収される3人は、船が着いた途端、まだ荷物も降ろしていないのに我先にと船に飛び乗って、顔をほころばせながら僕にもスペイン語で話しかけてきた。

1年間の島送りの後だったから、誰かと話したくて仕方なかったんだろうね。「ああ人間って、欲求を押さえつけるとこんなふうになるんだな」と、ものすごく印象深い旅だった。

あれは人間の欲求、こうあってほしい、こうなりたいということの塊みたいな経験だったね。

あの世界ではコンドルだけが自由だった。
僕はあのとき、心の底からコンドルになりたいと思ったんだ……。

「飢えがないと満足はできないんだ」と話してくれた椎名さん。

自分の“ほしい”に出会うためには、まず自分が何に飢えているのかをじっくりと見つめてみるといいのかも。そこで気づいた飢えを満たそうと走り出すとき、思いがけない出会いや熱中する喜びが待っているかもしれません。

写真:橋本美花
文:山田宗太朗
編集:エクスライト、ヤスダツバサ(Number X

作家・椎名誠コラム “ほしい”の想い出

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